明治末期 / 1900年〜

井上 乙楠(いのうえ おとぐす)が辰ヶ浜(たつがはま)の地で天ぷら屋を始める。当時は近隣住人への小売りから始まった。この頃は、地元辰ヶ浜で水揚げされるホタルジャコを初めとする小魚を主原料としていた。「天ぷら屋の乙楠」からやがて天乙と呼ばれ、これが屋号となった。

昭和初期 / 1920年〜

乙楠の長男、和夫が家業を手伝うようになり後の代表者となる。地元辰ヶ浜で水揚げされる漁獲量が不安定なため仕入れには苦労した。

昭和30年頃 / 1955年〜

和夫の長男、進が家業を手伝うようになる。地元辰ヶ浜での太刀魚の漁獲量がホタルジャコを上回るのに伴い、主原料も太刀魚に変更される。また、昭和35年頃にスケソウダラの冷凍すり身が開発され、いち早く原料の一部に取り入れる。

昭和44年 / 1969年

進が代表者になって後に、有田市内の同業者が組合を設立。進も設立メンバーとなり、同時に天乙の屋号も消滅する.。

昭和59年 / 1984年

加入していた組合を脱退。進、妻の里と長男の修平(現代表者)の3人で「天乙商店」として事業を再開。再開当初は和歌山の市場が主な販売先で、後に量販店への販売が主となる。再開と同時に、近隣住民の多くの方々が工場に買いに来てくれた。

平成3年 / 1991年

有限会社天乙商店に組織変更する。

平成6年 / 1994年

工場隣接地に販売店を開店。

平成14年 / 2002年

進が急逝。修平が代表者に就任する。原料面では辰ヶ浜の水揚げが不調になり、近畿圏内はもとより全国(主に西日本)の漁港より原料を調達する。また、全国的に加工用の原料が少なくなってきたため北米や東南アジアより原料を調達するようになる。海外からは冷凍すり身以外に冷凍魚を調達するようになるが、当初は仕入れに苦労し、時には、1コンテナ(約12トン)が満足できる品質ではなかったためすべて処分したこともあった。気温や湿度に左右されないよう、どのような条件下でも「おいしさ」を実現するために日々技術を磨いている。